【社会三分節と天皇制】
今上天皇の退位が再来年2019年4月30日、新天皇の即位が5月1日に決まりました。今回は社会三分節の考え方を使って天皇制について考えてみます。私は憲法論や天皇制について詳しいわけではありませんし、社会三分節化論から天皇制に対する特定の立場が導かれるわけでもありません。ここに述べるのは政治制度と文化領域の分離という観点から天皇制について考えた、私個人の現時点での雑感です。
日本国憲法の規定では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第1条) のであり、天皇は「国政に関する権能を有しない」(第4条) ことになっています。明治憲法下で「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる天皇が国家の統治権を一手に掌握し、天皇への忠誠を国民に強要する国家神道体制が次第に軍国主義に突っ走ったことへの反省です。太平洋戦争後、国民主権を基本にしながらも国民統合の象徴として天皇制が引き続き必要であると認めた上で、天皇の権威が政治に及ばないようにしたのでした。
天皇が国政に関与しないように定められた象徴天皇制は、基本的には天皇を世俗化して国家に組み込むという考え方です。しかし、天皇の権威を政治から排するのが目的なら、それ以外のモデルも可能です。天皇・皇室を政治国家ではなく文化に属するとしたらどうなるかを考えてみますが、その前にまず現在の象徴天皇制についてもう少し見てみましょう。
【国家に組み込まれた天皇】
民主国家の政治・法制の領域では「法の下の平等」が基本原理、すなわち、あまねく平等に当てはまることが要求されます。国家の政体に天皇を組み込みながらも「神格性」が国政に影響を与えないように、また、国民の信教の自由を保障するために天皇制は世俗化されました。日本国憲法の規定では、天皇は国会の指名に基いて内閣総理大臣を任命したり、内閣の助言と承認のもとに国事行為を行ったりします。この国事行為というのは国の権力を正当なものとして〝箔付け〟するために天皇が務める形式的な役割です。しかし、選挙で選ばれたのではない天皇を国の統治機構に組み込み、時の権力が天皇を政治的に利用することができないようにするために、天皇の言動は非常に限られたものになっています。天皇は選挙で選ばれた権力(内閣)の言う通りにしか行動できず、しかもすべての国民を代表する上で支障のないことしか語ることが許されません。天皇はその憲法上の地位から自分の意思を持ちえず、自分の言動に責任をとることができないのです。そのため、法律に書かれていなければ自分の退位について言及するのもままならないという事態になります。自由のない、がんじがらめの天皇です。
天皇はまた神道に基づく宮中祭祀をも執り行いますが、こちらは天皇の「私的行為」と考えられていて、これをもって国民に影響力を振るってはならないことになっています。世襲で血がつながっていさえすれば、別に伝統的な宗教性などなくてもかまわない(あるいは、宗教性は全くないのが望ましい)という意見もありましょう。逆に、公には何もしなくても、私的に宮中祭祀をやっていただけるだけでありがたい、という意見もあるようです。象徴天皇制は国民に広く支持されていますが、それは今の天皇の人柄や精力的な「公的行為」(被災地の慰問や慰霊など)に国民が共感していることを示すのだと思います。しかし、憲法はそもそも天皇の「公的行為」を想定していません。憲法が規定する天皇は、形式的な、いわば〝ハンコを押すだけ〟の天皇制で、必ずしもそれに国民が満足しているわけではないと思います。「政府界」の役割はもともと国民が平和に生活できるように社会を〝管理する〟ことです。〝制度化〟された皇室は、未来が危ぶまれるほど縮小し、現時点で皇位継承権のある皇族は4人たらず、新天皇の後の〝次の世代〟の男性皇族は秋篠宮家の悠仁さま一人しかいません。皇族たちは自分たちで将来を決めることは許されず〝皇室改革〟は政治家任せですが、それで本当に皇室の先細りに歯止めをかけることができるでしょうか。
【文化組織としての天皇制】
現代人の社会意識に照らすと、文化の基本原理は「自由」「創造性」「多様性」です。「自由」とはつまり誰からも強制されることなく自立しながら、それ自体の真価・実績によって評価が定まるということでもあります。そのため創造性や活力が生まれるのです。科学も宗教もここに属します。科学者や宗教家が自由勝手に何でもやってよいのではなく、科学者なら、誰にも強制されることなく到達した研究成果が〝本物〟であるなら万人に受け入れられるということですし、宗教家なら宗旨に基づく教化や活動を通じて人々の倫理観の発達・成熟に貢献することができれば、その存在価値を証明することになります。新しい発見によって論破された科学的理論や新しい時代の生き方に指針を示すことのできなくなった宗教は廃れていきます。
こう見ると、天皇制が神道との特別な関係を維持しながら、日本社会における一つの文化組織として自由にかつ創造性をもって活動することの意義が見えてきます。国家体制から天皇が独立するとなると、日本は統治形態としては共和国になり、天皇は国家元首ではなくなります。(現在でも〝象徴天皇は〟元首ではないとする意見があります。だからと言って、日本が共和国であるという議論には出会いませんが…。)天皇・皇室が一文化組織であるならば、日本の伝統的精神性である神道に則って天皇が神社を司るという立場にあってもかまわなくなります。もし天皇が、いわば宗教者として、国民の共感を得られる発言や活動をすることができれば、天皇は〝国民から慕われる〟存在になり、文化的な影響力を持つようになります。逆に、伝統・慣習を守るばかりで創造的な活動ができなければ、文化的・社会的な影響力を失う可能性もあるでしょう。国家体制の中で形式的に生き延びることが保障されている天皇制がよいか、国家からは自立して、自らの精神性・イニシアチブによって活発に社会に働きかける天皇制がよいか、の違いです。
これはイタリアにおけるローマ教皇(法王)の権威にも似ています。ローマ市内にあるバチカン市国は国際法上イタリア共和国から独立していますが、イタリア人は80%以上がカトリック教徒であると言われており、教皇は広く敬われています。天皇の法律上の地位がその他の宗派や文化組織と同等になったとしても、多くの国民が神社に初詣したり七五三を祝ったりする習慣を続ける限り、日本文化における神道の長としての天皇の特殊な地位は保障されるでしょう。そして、天皇が現代日本人の生活に意義のある精神的・社会的な価値観を発信できれば、かなりの権威・影響力を保てるでしょうし、神道的な自然理解の立場から全世界に向けてメッセージを発信することもできるようになります。(私はここでダライ・ラマやフランシスコ教皇をイメージしているのですが…。)倫理的・社会的影響力があれば、たとえ天皇が「国家元首」ではなくても、外国の元首などが日本に訪問した際に天皇にお目にかかるということも出てくるはずです。また、逆に言えば、天皇が国民の生活に全く無関係の存在になったとき、おのずと国民への影響力がなくなり、天皇が存在しないのと同じになります。投票で意思表示をしなくても、国民一人一人が自分の生活を通して表明する「国民の総意」が現われてきます。これを国家元首ではない、文化界に属する新たな「象徴天皇制」と呼ぶこともできるのではないでしょうか。
【皇室と神道の関係】
私が天皇と神道の関係にこだわるのをいぶかしく思う人々もいるでしょう。しかし、外国生まれの人々が増え、アイヌ民族や琉球文化の独自性が再認識される今こそ、天皇制と神道の関係をはっきりとらえる必要があるように私は思います。天皇は、古くは大和民族の精神的伝統の頂点に立ちながら政治的権力を行使し、勢力圏を広げました。祭政一致の時代です。中世から近代にいたるまでは政治的権力は武家に譲り、宗教的には仏教と影響を分かち合い、また融合しながらも、大和民族の精神性の流れを引き継ぐ形で権威を保ちました。精神的権威は天皇家に、政治的権力は幕府に、経済力は町人に、とみると、実は近世の日本では自然に社会三分節化が行われていたことに気づきます。
それを近代的統一国家に変えたのが明治政府です。大日本帝国憲法によって立憲君主制の形態をとる国家神道体制が築き上げられました。独自の精神的伝統を持つアイヌ民族は徐々に「日本民族」に融合・吸収され、汎霊信仰の独自の宗教(「琉球神道」とも呼ばれる)があった琉球王国は1879年に明治政府の琉球処分にあい、日本の国家神道体制に組み込まれることになりました。そして、現人神とあがめられた天皇は日本の軍国主義の頂点に立ち、内外に多大な被害と苦しみを引き起こしたのです。国民およびこの惨事を引き起こした〝当事者〟である皇室全体が、歴史上の出来事は良いことでも悪いことでも史実と認め、反省すべきは反省し、和解すべき人々とは和解することによって、琉球人、アイヌ人、神道を拝しない日本人、朝鮮韓国系や中国系、その他の文化地域から渡来した人々やその子孫など、日本に住むすべての人々を統合する、本当の意味で文化的・社会的な‶象徴〟に天皇がなることができると思うのです。
私は21世紀においても宗教および精神性/スピリチュアリティ―が非常に大切だと思います。宗教・精神性といっても、必ずしも「信仰」(何かを信じ、あがめる)という意味ではなく、人間とは何か、地球とは何か、生命とは何か、テクノロジーやAIをどう使うかなど、倫理的問題について考える際に単なる唯物論・物質主義ではない視点を持つことです。その時、日本の伝統的な精神性に基づいて自由に発言できる神道の長がいたら日本人の考え方が豊かになると思うのです。
【ヨーロッパの王室はもっと自由】
他の民主主義的立憲君主国の例を見ると、ヨーロッパの王室は「国家元首」という形で統治国家の一部を形成しながらも、日本の天皇と比べて、もっと文化的な自由さを持っています。また、〝政教分離の民主国家だから国家元首は完全に世俗化されたものでなければならない〟というわけではないのに気づきます。イギリスの国王は英国聖公会(アングリカン・チャーチ)の首長であり、戴冠式は聖公会のウェストミンスター寺院で行われます。イギリスには旧大英帝国植民地の各国(インド、香港、アフリカ諸国など)からの移民だけでなく、第二次大戦後の様々な国からの移民・難民が国籍を取って住んでいます。英国は〝イギリス人〟だけのものではなく、多文化主義の国です。そうありながらもイギリスは古くからの伝統を重んじる国で、国家の統治形態も、歴史的な宗教性を基盤とした王制の上に築かれています。その上で国民の信教の自由と政教分離の原則が保障されているのです。イギリスにはいまだに貴族院制度があり、王族が政治色を帯びた発言をすることがないわけではありません。ただ、王族が何かを言ったからと言って、それが畏れ多いことのように思われることはなく、発言内容が適切でなければ、それがメディアによってたたかれることもあります。民主制度の下の日本の天皇・皇室にももう少し自由があってよいのではないでしょうか。
イギリスのチャールズ皇太子の最初の妃だったダイアナ妃が皇太子との別居・離婚を経て交通事故死してから今年で20年になります。以前からイギリス王室は広く国民から慕われており、王制を廃して共和制をとる国が増える中で最後まで生き残るのはトランプの4人の王様とイギリスの王様だと言われるぐらいでしたが、20年前ごろにはイギリス王室の権威・衆望がかなり落ち込んでいました。その後ウィリアム王子のキャサリン妃との結婚などを通じて、王室に対する関心・尊敬が再び上昇しています。このようなことが起こるのも、イギリスでは王族の一人一人がかなり個性を持って行動するからだと思います。王族だから〝なるべく問題を起こさないように〟行動を控えるという感覚が薄れてきているのでしょう。
また、英国同様に王制をとるベルギーでは次のようなことがありました。1990年に妊娠中絶法案が議会を通過しましたが、議会によって法案への署名を求められたボードゥアン1世は、自ら敬虔なカトリック教徒であり、カトリックの教義では妊娠中絶は認められていないため、法案への署名を行いたくない意向でした。国が中絶を合法化することに反対なのではなく、自分の良心に反することは法案の署名であっても行いたくない、ということです。内閣と協議した結果、ボードゥアン国王は一時的に「統治不能」を宣言し、その間に内閣が代理で法案に署名したのです。ボードゥアン1世は数日後法案が成立するのに伴って、再び国王としての統治(君臨)を開始したのでした。もともとボードゥアン1世はその人柄、高潔さからベルギーのフランス系住民からもオランダ系住民からも非常に尊敬されており、このエピソードも国王のインテグリティー(〝主体的整合性〟つまり道徳的な「考え・主張・行動」が一致していること)を示すものだと考えられているようです。言いたいこともなかなか言えない、操り人形のような日本の天皇の地位とは大きな違いがあります。
デンマークのフレデリック皇太子は2000年のシドニーオリンピックの際に訪れたバーでオーストラリア人のメアリー・ドナルドソンと出会い、二人は4年後に結婚しました。イギリスのハリー王子は今年11月にアメリカ人女優のメーガン・マークルと婚約しました。ヨーロッパの王室では離婚も国際結婚も珍しくなく、ハリー王子は未成年のときの喫煙や薬物使用の経験もあり、王族とはいえ隔離された存在ではなく、一般市民と同じような生活体験をしています。現在の日本人の国民性からすると、日本の皇室がヨーロッパの王室のようになるにはまだまだ時間がかかるでしょうが、皇族一人一人の個人意識が増してゆくのは疑いありません。この先、今のような制度では皇族としてさらに生きづらくなることでしょう。
【まとめ】
私は、日本国民が近い将来憲法を改正して、一文化組織としての天皇制に移行するだろうなどとは思いません。ただ、新たな天皇像を模索するためには三分節社会の考え方を使って「国家とは何か」「文化とは何か」を問うことが有効だと思うのです。現在の象徴天皇制を守りながら、「自由で創造的な文化的活動」を天皇が行えるようにできたらよいのではないでしょうか。被災地の慰問や慰霊も「公的行為」でなく共同体における「文化的行為」と位置付け、「宮中祭祀」についても「私的行為」ではなく伝統的な「文化的行為」として天皇が行えるようにするのがよいと私は考えます。
実際問題として天皇のあり方や天皇と国民との関係に注目するならば、天皇及び皇族の「個人主義化」「一般市民化」は徐々に進んでいくでしょうし、天皇・皇族が主体的な個人としてもう少し自由に生活や行動ができるようにならないと、皇位継承権のある皇族と結婚するような一般女性もいなくなるのではないでしょうか。皇族がイギリスのウィリアム王子やキャサリン妃のように〝セレブリティ〟扱いされる必要はないとしても、雛人形のようにただ〝そこに座っているだけ〟の皇室では、国民がだんだん天皇制から離れていくのも避けられません。また、もし皇位継承の血筋が絶えてしまったらどうなるでしょう。〝事なかれ主義〟の政治家に皇室改革を任せるのでなく、皇族自体が‶当事者として〟主体的・創造的にかかわっていけるようにする必要があるのではないでしょうか。
また、天皇制を国家でなく神道につなげるという可能性も頭の隅っこに残しておきましょう。血筋がつながっているのが天皇なのか、神道的精神性につながっているのが天皇なのか、問いかけてみる必要があります。そもそも個人意識の発達した現代社会では「世襲制」自体が時代遅れです。血統よりも霊統を重んじて、ローマ教皇が枢機卿団によって選出されるように、神道の伝統を引き継ぐしかるべき人々(必ずしも皇族ではなくて)の中から天皇を選出するということになってもよいと思います。
天皇は経済活動に従事しないのは自明のこととして、ここでは全く論じませんでしたが、以上、社会三分節化論を使って、とりとめもなく意見を述べました。
コメントをお書きください