【象徴天皇制】
日本国憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると規定されています。これを社会三分節の観点から考えると、「日本国の象徴」であるということは、まず天皇が政治法制の領域に属する国家を象徴するということです。「象徴する」のですから「統括する」とか「代表する」のとは異なり、もっと〝精神的〟な役割だということです。天皇は、「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」ので、国家機能で一定の役割を持つとはいえ、それは具体的な権威ではなく、精神的・文化的な意味での権威でしょう。
それでは「国民統合の象徴」とは何でしょうか。国民一人ひとりが政治法制、精神文化、経済活動の三つのレベルで社会に関わっていることから考えると、「国民の統合」を考える場合にも政治法制、精神文化、経済活動の三つのレベルから考察することが有益です。これら三つの分野すべてで国民の大多数が帰属意識・一体感を持っている社会こそが国民のうまく統合された社会だと言えます。
【政治的な国民の統合】
政治法制の領域で国民が帰属意識をもって統合されているということは、どの地域に住む人々も、どの社会階層の人々も政治に肯定的に参加し、法律に従って生活し、その結果治安が整っているということ、つまり国家の統治機構がうまく機能しているということです。現代人の社会意識に照らしてみると、それを実現するためにはすべての人々に政治上・法律上の「平等」な権利が保障されていなければなりません。世界には、政治的、文化的、あるいは経済的に疎外された集団を抱えているために国家秩序が保たれず、分離独立運動、内戦、テロ行為などに苦悩している国々がたくさんあります。沖縄の基地問題はそれらに比べれば〝穏やか〟な論点ですが、それでも上から「統合」を強要するような姿勢を政府が採るなら、それは日本国憲法の精神から外れているのではないでしょうか。民主主義国家においては少数意見も尊重されるべきですが、現実には多数決の原理で少数派の意見が通らないことが多々あります。そのような民主主義の限界を超えて日本国の政治法制が信頼されるべく、天皇が国民を統合する象徴として役割を果たすことが期待されているわけです。
【文化的な国民の統合】
文化的に国民が帰属感をもつということは、終戦直後の日本の社会では当然のことだったでしょう。「運命共同体」として国家による戦争がもたらした高揚感および悲惨さを体験し、敗戦の結果占領下におかれても、「日本人」であるという意識は薄れていなかったはずです。たとえ占領軍によって天皇制が廃止されていたとしても、それが理由で日本人がバラバラになってしまう恐れはなかったに違いありません。そうは言っても、それまでの社会的前提が8月15日を境に崩れていき、代わりにアメリカ占領軍が持ち込んだ新しい価値観を国民全体として受け入れるということは、そう簡単だったわけではないでしょう。もし昭和天皇による「人間宣言」や戦争の過ちを認めるという〝作業〟がなかったら、そして天皇が最後まで抵抗して占領軍によって処刑されていたら、戦後の日本社会はもっと不安定なものになっていたかもしれません。敗戦によって強制されたのだとしても、戦争に至らしめた旧来の文化を捨て、よい伝統は守りながら新しいものも取り入れることで日本の文化を進化・発展させることができる…昭和天皇は国民の象徴として自らそれを示したと言えるでしょう。
けれども一方で、終戦まで日本国民であり、戦後も日本に住み続ける在日朝鮮・韓国人はその「国民」には統合されていません。朝鮮・韓国人としてのアイデンティティーをもって日本で生きることは、いろいろな困難や苦しみを伴うようです。また、戦争に関して未だ清算されていない日本人の文化レベルでの対外的責任も存在すると思います。韓国を併合し、中国・東南アジア・太平洋の島々に侵攻した帝国主義政策は、軍事や国家による行為や経済に関することだけでなく、文化の次元でも数々の問題を引き起こしました。外交的に戦争責任を解決し、補償金やその後の援助で経済的に戦争責任を解決しても、文化的な問題(中国人・韓国人のもつ〝心のしこり〟)はまだ残っています。日本ではこれらの問題がすべて政治上の問題だと考えられ、国民全体が文化的にこれを反省し、痛みを癒す努力はしてきませんでした。この点、戦後ドイツでの取り組みとは対照的です。
今年の2月に韓国の国会議長が「天皇が元慰安婦に直接謝罪すれば慰安婦問題は解決する」という考えを示したと報道されました。これは、案外当たっているのではないでしょうか。(これについては、2019年2月25日のブログ「 アイデンティティ・ポリティクスと集団の痛み」でも触れました。)終戦後、昭和天皇が直接的に謝罪を行っていれば、この問題はもっと早く解決されたでしょう。 もちろん戦争中の天皇は国家・軍を直接率いていたので、その場合「国家」としての天皇が謝罪するようにも見えます。けれども、日本文化を象徴する人間として天皇が謝罪することは〝象徴的な〟意義を生み出します。今上天皇(平成天皇)がまったく自由に行動できる立場にあったら、ずっと以前にそのような謝罪を行っていたと思いませんか? それを受けた日本国民は、過去の過ちに対する反省・謝罪の念を日本文化の一部として心に受け止め、ドイツが行ったように学校教育でそれに取り組み、そのような悲劇が再び起こらないようにする…そういうプロセスが必要である気がします。
さて、文化の上での「国民統合」は21世紀の多元化された社会においては、「一億総~」ということではないはずです。国民の価値観は様々です。今まで日の目を見ることのなかったLGTBコミュニティーの権利に対する理解も広まりつつあります。世界的な難民問題が各国に重くのしかかる中、日本もまず文化的・精神的にそのような人々を受け入れる準備をする必要があります。「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」が違っても「日本人」としてのアイデンティティーに誇りを持って他の人々と協力しながら生きることができる…それが、文化的に自由な「国民統合」です。この点で、新たな令和時代の天皇像は、〝単一民族国家日本〟の天皇から脱皮し、伝統文化に根差しながらも日本という国土に住むすべての人々の統合を象徴する天皇となることではないでしょうか。
【経済的な国民の統合】
「国民統合」を経済領域の観点から考えるとどうなるでしょうか。まず、経済格差が拡大するのは良くありません。失業者や「ワーキングプア」と呼ばれる人たちも人間らしく生きることができなければなりません。農業や漁業に従事する人々の生活も保障される必要があります。現代人にとって、政治の面では「平等」、文化の面では「自由」がないと「国民統合」に反発したくなります。経済の面では、誰もが経済活動を通じて社会に貢献することができ、その労働が報われるからこそ「その社会に属する」という感情が育ちます。経済においては「共に栄える」、「互恵」という原理が国民統合に寄与するのです。けれども、日本の天皇は直接経済活動に従事することはありませんし、国民の経済活動に関与することもできません。ここでも、天皇の役割は文化的象徴として経済領域から国民の統合を可能にする「和」や「互恵」の精神を促すことでしょう。
このように見ると、天皇が国民統合の「象徴」であるということは、天皇が政治に属するのでなく、文化に属する存在として役割を果たすことが要請されていることに気づきます。日本の文化を象徴するものとして国民を統合するために、自由・寛容、平等・責任、互恵・協力などの価値を自らの行為・言動を通じて促すことが天皇に期待されているのではないでしょうか。
【国事行為・公的行為・文化的行為】
さて、日本国憲法は第三条、第四条に次のように記しています。
第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」および
第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。」
第四条の文面では、天皇はそもそも憲法の定める国事以外の行為は全くできないかのように読めますが、第三条では「国事に関する」ことについては「内閣の助言を必要とし」、それ以外の行為については内閣には縛られない、とも読めます。私は憲法学者ではないので正式なことはわかりません。けれども、社会三分節的に見れば、「国事」すなわち政治や法制に関わること以外の「文化的行為」は当然行える、と解することができます。天皇は、国家機能の一部としての役割を持つ一方、「市民界」に属する文化人として存在し、「国民統合の象徴」の役割に抵触しない限り何を行ってもよいという考えです。そうでないと、天皇は非政治的でありながら完全に政治に縛られた存在になってしまいます。
そもそも、天皇が自分の退位について何も発言できないということは、おかしいのではないでしょうか。総理大臣が辞任するのは政治問題であっても、非政治的な天皇が退位するのは政治の問題ではないはずです。そもそも政治とは何なのでしょうか。憲法に書かれていることはすべて政治だというわけではないでしょう。「退位の意向に関する発言も天皇に許さない」ということ自体、政治家が天皇を利用しているように見えます。社会三分節の概念を使って「政治」、「経済」、「文化」を再定義する必要があるように私は思います。
さて、天皇の「文化的行為」の中には歌会のような伝統文化もあるでしょうし、現在「私的行為」と捉えられている宮中祭祀も含まれていいと思います。(天皇の宗教性については以前、2017年12月11日のブログ「 天皇制と社会三分節」で私の意見を紹介しました。)慰安・慰問などのいわゆる「公的行為」も、先に見たように、政治でも経済でもない「文化」的な行為だと考えてよいでしょう。
【個人として発言できる天皇】
現在の天皇は、一般人の持つ人権もなく、自ら何も言えない、がんじがらめの存在です。これは改善しなければなりません。現代日本の文化を象徴するものとして天皇が自分自身の良識に基づいて自由に発言できる…私たちはそういう社会的・文化的状況を作り出す必要があります。私はそれが天皇自身の意識に合致すると思いますし、個人として発言できる天皇を許すことが日本人の政治的・文化的成熟度を表すのではないでしょうか。
「国事行為」以外の天皇の言動について政府が口出しすることは避けなければなりません。もちろん、天皇が「象徴」にふさわしい活動・言動を行うことは大前提です。けれども、それだからと言って、天皇のやること、言うことすべてが正しいと考える必要もありません。人格を否定するような個人的な攻撃はするべきではありませんが、天皇の行為が報道番組やソーシャルメディアを通じて議論されてもよいと私は思います。イギリスの王室に対してイギリス国民が意見を表明したり、ローマ教皇の言動について議論されたりするのと同様です。人々の意見は様々なので、時には好ましくないことも議論されるでしょうし、メディアによる議論や取材が行き過ぎることもあるでしょう。それはそれで制御されなければなりませんが、それは必ずしも法律による規制でなくてもよいはずです。メディアを通じて表明される国民の良識こそが文化をリードしていき、それによって〝自己制御〟されるのが望ましいのです。
21世紀の天皇と国民のあり方は、このように新しい形を模索してゆくこととなるでしょう。また、象徴天皇のあり方も、国内での「国民統合の象徴」だけでなく、対外的にも日本文化を象徴して発信することのできる天皇が望まれるようになるかもしれません。幸い、新しい天皇・皇后両陛下は海外留学のご経験もあり、親交のある海外の要人もいらっしゃるようです。当然ながら国際的な視野をお持ちのはずで、「象徴天皇」に新たな風を吹き込まれることでしょう。これからの日本人の国際社会での貢献をリードするような新しい天皇の誕生を期待したいと思います。
なお、現在マーティン・ラージ著『三分節共栄社会—自由・平等・互恵・持続可能性を実現する—』をPOD出版する準備をしていますので、ご期待ください。
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