【12年間に6人の首相】
オーストラリアでは11年半続いた保守連合のハワード政権が2007年に労働党のラッド党首に敗れてから、12年の間に首相が6回代わりました。地滑り的な勝利で首相の座についたラッド首相は、気候変動に対する京都議定書に調印し、政府の同化政策によって家族から引き離された先住民の子供たちに対して公式に謝罪するなど進歩的な政策を進めましたが、鉱業・採掘会社を対象とした「資源超過利潤税」を導入しようとした際に産業界からの反対攻勢を受け、結果として内閣支持率が急落しました。2010年の衆議院選挙を前にして労働党国会議員団は党首の座を人気が低下しているラッド氏から初めて女性の首相となるギラード氏にすげ替え、首相が交代しました。党内の動きは「水面下」で行われたために、国民にとって文字通り「朝起きたら首相が代わっていた」のです。
その後、支持率の低下を気にして首相である党首を与党国会議員団がすげ替えるという手法が労働党と保守連合の両者において行われ、2007年から2018年の間に首相がラッド-ギラード-ラッド-アボット(この交代は選挙の結果)-ターンブル-モリソンと代わりました。
【世論調査と支持率】
こんなことが起きたのは与党が支持率の上がり下がりに一喜一憂したからですが、今回の選挙結果から見ると世論調査などあまり当てにならないことがわかります。野党労働党党首は必ずしも人気のある人物ではありませんでしたが、政党支持率ではここ3年間一貫して労働党が優位に立っていました。出口調査を元にした投票終了直後の予想はオーストラリアのどのメディアも労働党の勝利を伝えていたのです。
イギリスのEU離脱国民投票の時もアメリカでトランプ氏が大統領選挙に勝った時も、誰も正しい結果を予測していませんでした。これはやはり世論調査の標本抽出の方法に問題があるのでしょう。以前は電話帳を使った固定電話調査の比重が大きかったのが、最近は携帯電話の普及で固定電話を持っていない人が増えていて、全体を反映する標本が得られないからだ、という説明を読みました。また、世論調査での答えと実際の投票での行動に差があるのかもしれません。
報道機関は、以前は一般人の午前9時から午後5時の勤務時間という生活パターンに即した報道体制をとっていましたが、最近は24時間テレビやインターネットの普及により「年中無休24時間営業」で世界中の出来事が即時報道されています。指導的立場にいる政治家はそれらの出来事に即時にコメントを出すことが期待されるようになり、毎週のように行われる支持率調査にも過敏にならざるをえません。他人が自分をどう見ているかに注意することはもちろん自分の行動を修正するために必要な大切なフィードバックですが、それに終始するのは自己への執着に溺れるナルシシズムになります。政治家・政党がそのようであっては意味を持つ政策を実行することができません。
【固定した社会の分断】
イギリスのEU離脱国民投票では、年配者と教育水準の低い人々ほど離脱支持が多く、地域的にはロンドン・スコットランド・北アイルランドが残留支持、それ以外の地域が離脱支持だったという分析結果が出ています。アメリカでは「ラストベルト(錆地帯)」と呼ばれる製造業の減退した地域にトランプ大統領の支持者が多く出ました。今回のオーストラリアの選挙では、炭素排出量を削減するためにはクイーンズランド州にある新しい炭鉱開発の計画を阻止しなければならないとする都市部の市民たちと、斜陽の地方では炭鉱開発による雇用がなによりも大切であり、大都市の住民には地方のことは分からないという地方住民の考え方がはっきり分かれたように見えます。オーストラリアの保守連合は地球温暖化に対する懐疑論の立場に立つ議員が多いのです。クイーンズランドで労働党が大敗し、代わりに国粋主義の上院議員が選出されたこともあり、後ろ向きのクイーンズランドはオーストラリア連邦から追放したほうが良いという「クイーンズランド離脱Quexit」の考えがソーシャルメディアでささやかれたりもしました。
【エコーチェンバー現象】
そもそも都市部では社会を改良しようという進歩的な考えが強く、地方では保守的な意見が強いのは今に始まったことではありません。ただ、その意見・立場が固定してしまい、さらに自分の意見以外には耳を貸さないという姿勢が恒常化してしまうと、すべての国民の代表が議論をしながら政策を吟味し、妥協点を探り、国としての方向を決めるという自由民主主義の原則が崩れます。インターネットによって意見を拡散するのが容易になり、またFacebook、Google、Twitterなどは利用者それぞれに自分の読みたい情報を優先的に提供するアルゴリズムが組み込まれているので、そのようなソーシャルメディアだけに頼っていると、残響室(エコーチェンバー)に入ったように「自分の声」だけが増幅して聞こえるようになります。過激なイスラム思想や白人至上主義、日本だったら極端な国粋主義、さらに障害者・性的マイノリティーを排斥するような態度の温床になります。
このようなレベルになると、これは決して「政治問題」ではなく社会の「文化のあり方」の問題でしょう。自分勝手、独りよがり、偏狭な態度が増大しているとすると、学校教育やマスメディア、大衆文化に何が起こっているのでしょうか。わたしにはこれが「自己責任」を説く新自由主義・市場原理主義型資本主義の影響であるように思われます。自分自身が自由になって独り立ちした上で、他者を理解し、他人のために働くという視点が広く受け入れられるようになれば、社会は健全なものになるでしょう。
【自国の文化に対する依存症】
オーストラリアは移民の国であり、1970年代以降白豪主義を廃止してからは比較的平和に各国からの移民を受け入れ、統合してきました。統合を拒否する移民グループがあったり、自分の経済的生活基盤が揺らいだりすると移民を制限しようとする動きが出るのは当然です。それでも基本的には、移民がいるために文化が豊かになるというのがオーストラリア国民の考え方です。
日本では移民・難民の数がまだ少ないので、極端な思想が生まれるほど摩擦はないようです。けれども、シリアやスーダン等の地域から戦争などで国外に追われた人々の数が日本の人口の約半数に当たる6千万人以上にのぼると聞きながら、微々たる数しか難民を受け入れない日本社会の文化、日本人の意識は、人類的視点からすると自分勝手で独りよがりだと思われて仕方ないでしょう。そもそもそれぞれの文化・伝統そのものがエコーチェンバーとして作用します。アメリカのカトリック・フランシスコ会のリチャード・ロアーは、すべての社会はそれ自身に対する依存症になっており、その構成員の共依存関係を作り出していると言います。自分がハマっていることに気づかず、他の文化からの視点を理解できないというわけです。
国際的視野を持つということは自国の視点から離れて物事を見るということだと思います。そういう要素を日本文化の中に育ててゆくことがこれからますます必要になります。また、官僚が政治家に忖度するのは政治の問題にも見えますが、実はこれも文化の問題でしょう。日本の文化は一般に調和を重んじるものだと考えられていますが、令和時代の調和は、慣習であるが故の調和や国際社会を無視するような内向きの調和でなく、一人一人が自由に考え、行動しながら他者を理解し、他人のために働いて作り出す調和であることを願っています。
【三分節共栄社会】
社会の改革は、精神文化・政治制度・経済活動のそれぞれを変革することによって達成されます。そのための方向を具体例を使って示すために、ただ今、マーティン・ラージ著『三分節共栄社会–自由・平等・互恵・持続可能性を実現する–』のPOD出版(プリント・オン・デマンド)の準備をしています。来月6月中の出版を目指していますのでご期待ください。
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