【今そこにあるものから変える】
マーティン・ラージ著の『三分節共栄社会』に次のような話が載っています。
全体的に見たら自分たちの活動がバケツの中の一しずくに過ぎないと思いながらも多くの人々が変化を促すために努力しています。嵐によって何百ものヒトデが放り上げられた海岸に立ってヒトデを一匹一匹海に投げ返している少年の話を考えてみてください。「そんなことをしたってどんな違いがあるんだい?」と聞かれたとき、少年はもう一匹ヒトデを海に投げ入れながら、「このヒトデにとっては大違いだよ!」と答えたといいます。
(第二章「個人のイニシアチブが社会を造り直す」)
社会にプラスチックがあふれる中で、自分一人プラスチックの包装を拒否し、ごみを拾ったところでたかが知れている…と考えがちですが、そんな行動をとることは本当に意味があるのでしょうか?
【今再びマルクス?】
最近、朝日新聞などに「マルクスを再考する」という趣旨の記事をよく見かけます。私の住むオーストラリアではそのような論調はまったく見かけないので、ちょっと不思議に思います。確かに現代資本主義が破綻しているのは明らかですし、その昔マルクスが資本主義を批判して社会主義の理論を打ち立てたのも事実です。資本主義の矛盾を分析する上で役に立つことがマルクスの中に全くないとは言いません。けれども、マルクス主義の根本的‶欠点〟は精神・文化が経済構造に従属するものとしたことではないでしょうか。経済構造が変わらないと文化も変わらないのでしょうか? わたしはマルクスは『共産党宣言』しか読んだことがないので本当はマルクスをまったく理解していないのかもしれませんが、私たちが今必要としている社会変革のためにはマルクスよりルドルフ・シュタイナーの考えの方がもっと役に立つと思うのです。
【意識の進化と文化・政治・経済】
シュタイナーが提起した意識の進化に基づいて人類の社会の発展を説明すると次のようになります。以下、マーティン・ラージの『三分節共栄社会』からの抜粋です。
...人類がまだ明晰な思考力を持たず、夢のような朦朧とした意識であった古代においては文化制度が社会全体を支配していました。神権制度というのは祭祀を行う者が統治する制度[祭政一致]で、古代文明に広く行われました。...階層的なピラミッド型の社会制度のどこに自分が位置するか誰もが本能的にわきまえていました。経済活動も社会の掟(法律)も神聖なものであって、宗教によって統制されていました。エジプトの神権制度は宗教が全体を統制して、文化が全てを支配していた一重社会だったのです。
...政治や法律の制度は、古代の神権体制から脱皮した古代ギリシャとローマにおいて初めて分離・独立したものとして誕生しました。社会が宗教文化的組織と政治法制組織からなる二重、あるいは二極の構造になったのですが、経済活動のほうは組織としては未だ両組織に従属していました。...
...奴隷や女性には権利がありませんでした。けれどもその後、働く者の権利という考え方が発展し始め、次第に進化して、経済的・社会的権利を完全に実施することによって賃金奴隷の最後の名残が今日取り払われるに至っています。...
...中世末期に労働と資本が解放されるに至って、個人意識の成長という問題が湧き上がりました。...ルドルフ・シュタイナーは…人類はほとんど無意識のうちに「利己主義に正面から取り組み、最終的にはこの苦闘を通じてまさに現代民主主義という頂点に立った。人間はみな平等であるという感覚、人はそれぞれ自分の法的権利や自分の労働について自ら決定しなければならないという感情である。」と述べています。...
...経済制度が…十六世紀、十七世紀以降…徐々に宗教の制約…、国家の制約…から解放されていきました。…産業革命によって経済制度が独立して発展するようになり、自由市場、自由放任の経済自由主義という資本主義的背景が生まれたのです。
アダム・スミスは市場経済の誕生において生産性を向上させる鍵の一つとして分業を挙げています。彼の考えはその後社会ダーウィニスト・新自由主義派によって乱用されて、過度の市場競争や私的な資本の蓄積、私的利益を正当化するのに使われました。…分業の意味については新自由派による〝欲の制度化〟という解釈とはまったく別の理解をすることができます。つまり、分業によって専門化が進めば進むほど、わたしたちは他人の仕事に頼るようになります。自分が必要なものを自ら作るという自給自足は土地に基盤を置いた農耕生活を営んでいるうえでは可能でしたが、現代の工業化した世界では不可能です。…私たちは事実として、また倫理的・社会的にも、友愛・互恵を原理としなければならなくなります。・・・
【制度改革か、意識の変革か】
マルクス主義は基本的に唯物論・物質主義で、物質的状況にとらわれない自由な人間の精神活動を認めず、人間の考え方は経済構造のあり方に規定されるという主張だと私は理解しています。経済構造が変わらないと文化も社会も変わらないという立場に立つと、どうしても上からの制度改革しか見えてきません。議会での法律制定を通じて制度を改革するか、革命を起こすかでしょう。けれども、人間一人一人が自由な精神に基づいて行動することが可能である(常に自由であるわけではない)という考え方に立つと、個人に始まる意識の変革が徐々に多くの人々の考え方を変え、社会全体を変える可能性が見えてきます。これはある意味で、社会変革のアプローチとして上から改革を断行し‶社会〟が変革を保障する「社会」主義に対抗する考え方でもあります。あるいは、コンピューターのような‶中枢〟が統制する社会のイメージから、多様な生物が勝手に生きている中で自然に統制がとれている有機的な社会のイメージと言ってもよいでしょうか。19世紀後半に階級闘争の考えから生まれ、労働運動の発展とともに「平等」を追求した社会主義と、20世紀後半に環境問題・エコロジーから生まれ、「相互依存・共生」の理念に基づく‶みどり〟の市民運動の違いです。「多様性」がその中心にあるので、伝統的な共同体に基づく「和」を求めるのではなく、多様なものが自由にその生き方を表現できるという意味で「アナーキズム(無統制主義)」の発展したものと考えることもできるかもしれません。
【生き方の問題として】
スピリチュアリティ―の観点から見て、聖ヨゼフ修道会のシスター メアリー・ベス・インガム(Mary Beth Ingham)は次のように言っています。
一つが多くに通じる道、
特定が全般に通じる道、
今が常に通じる道、
ここがあらゆるところに通じる道、
物質的な物が精神的な物への道、
見えるものが見えない物への道。
フランシスコ会のリチャード・ロア(Richard Rohr)は
ある一つの状況やある一人の人をとことん愛することから始めましょう。それが普遍的な愛を学ぶための一番の、そしてたぶん唯一の、学校なのです。
ひとりの人間としてこの世に生きる限りは、いま自分の目の前にある現実に取り組まなければ始まりません。動物保護でもよし、プラスチック反対でもよし、人権運動に関わるもよし、反核兵器の運動に参加するもよし、再生可能なエネルギーの開発に関わるのもよし、ホームレスの人々を助けるのもよし、自分がかかわりたいことに本気でかかわりながら、他の人々の行動を尊重する、これがいま生まれようとしている市民の社会意識なのです。お上からいわれなくても行動できる、気がねしたり忖度したりしないで自分の信念にそって行動できる、過ちに気づいたら素直にそれを受け入れ新たな一歩を踏む、そのような意識を育てていく必要があります。このような意識が現代の民主主義の危機を救い、地球の気候変動に有効に対処することを可能にするのだと思います。グローバルに考え、自分の足元から行動するのです。
マーティン・ラージ著の『三分節共栄社会』にはグローバルなビジョンに加え、自分の地元から行動する、さまざまな例が載っています。ぜひご一読ください。
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