【都市のロックダウン/シャットダウン】
オーストラリアでは、屋内スポーツ施設、映画館等の娯楽施設は閉鎖、飲食店は「持ちかえり(テイクアウト)」のみの営業が許可されています。その後段階的に規制が強まっており、現在プールや図書館、博物館、宗教施設なども閉鎖になっていますが、デパートは開いているお店がたくさんあります。公の空間では他人とは1.5メートルの距離を保たなければならず、スーパーのレジで並ぶ際にもこの間隔をとります。今週からは店内に入れる人数も制限されるようになりました。また、屋外・屋内ともに、家族や同居人以外の人間が集まれる人数は2人までで、特例として結婚式は当事者2名+立会人2名+式の執行者(司祭など)1名の5人まで、葬式は10人まで集まってよいことになっています。必要な物品を買いに行くのはOK、医療機関へ行くのもOK、健康を保つための散歩や運動等もOK、閉鎖されていない職場に出勤するのもOK、大学は閉鎖、小中学校や高校は現在秋季休業中ですが、新学期には児童生徒は登校せず、インターネットなどを使った遠隔教育に移行します。(保護者が医療機関などに努めていたり、その他の事情で児童生徒が家に留まることができない場合のために学校は一応「開いて」いることになっていますが、もちろん通常の授業は行われません。)連邦政府・州政府の命令なので違反すると罰せられ、大勢で集まっていたりするとその場で10万円程度の罰金になります。とは言え、都市が完全に封鎖されているわけではないのでロックダウン(封鎖)ではなくシャットダウン(閉鎖)と呼んでいます。
この閉鎖が開始された数日後、わたしは高速道路のサービスエリアでコーヒーを一杯買いましたが、その際、使い捨てを避けるために普段から持ち歩いている自分のカップを使うことができませんでした。店員が他人の触ったものに接触しないようにしているためでした。また支払いも現金は不可、カードでタッチするだけの方式で払うことになっていました。一瞬、「わたしだったらそんなに気にしないのに…」と思いましたが、すぐにそれは、店員が感染しないための措置ではなく、客から店員を介してウイルスが他の客に広がらないようにするためだと気づきました。次の日、自宅近くの小さな自然食品店に入ったところ、レジのカウンターのところが透明なプラスチック板で仕切られていました。これもやはり同じことです。「自分を守るため」ではなく「他人を守るため」なのです。
【社会と個人】
先日、英国のボリス・ジョンソン首相は自身の自主隔離中に「我々はみな一緒に乗り切るのです。コロナウイルスの危機が一つ証明したのは、社会というものは本当に存在するということです。」と強調しました。‶社会などというものはない、あるのは個人と家庭だけだ〟と1987年に言ったのは新自由主義の先鋒、故マーガレット・サッチャー首相でした。社会にはいろいろな面があるので、一面的な考えに固執すると社会というものの本来の性格が見えなくなります。もちろん当ブログでは社会を3つの違った側面から考えます。
【ルールを守る】
まず、どんな社会でも法律や掟があり、成員にそれを守らせるための仕組みがあります。(それができないような社会は機能不全であるといえます。前近代的な社会やインフォーマルなグループでは、規則が明文化されていなくてもルールはみなが承知しています。)この領域が「公け」の領域で、現代社会では国家が法律を使って規則の遵守を定め、警察などの法律執行機関が違反を取り締まります。これは民主国家においても全体主義国家においても同じことで、ただ法律を決定するプロセスや法の執行の仕方が異なるだけです。日本やオーストラリアのような民主国家では、法律が全国民に平等に当てはまります。オーストラリアのヴィクトリア州では州政府が伝染病の蔓延のためにすべての学校を閉鎖すると決定したため、公立学校も私立学校もすべて閉鎖になりました。新型コロナウイルスに関連する行動規制は、社会全体にウイルスが広がるスピードを抑えるためのものです。仮に‶わたし〟個人が健康に優れていて、おまけに神様のことを信じているのでウイルスに感染してもちゃんと完治する、という意見の人がいても、やはり家に留まらなければなりません。法の下の平等と他者の権利の尊重は現代文明社会の基本です。
日本では欧米諸国のような都市封鎖を政府が命令することができないということですが、このことは今後じっくり考えてみる必要があるとわたしは思います。日本政府が国民に自粛を要請するということは「個人の意識に訴える」ことなのでしょうか? それとも国民の「世間体への意識に頼る」ことなのでしょうか? 休業補償なしのままに数々の業種に休業要請を出しても、それを守る義務も罰則もないとしたら、どこまで徹底するでしょう。国民の生活を維持しながら健康を守るという観点から、営業を続けてほしい企業や施設もあるし、休業してもらうのが望ましい企業や施設もあるわけですが、それを指定して休業させてしまうと国(都道府県?)の責任になるので、あいまいに要請するだけ…でいいのでしょうか? 危機的状況のときに「だれかの責任でなんとかする」のではなく「なんとかなるのをまつ」というのはきわめて日本的な気がします。
【他人に奉仕する】
経済領域の、消費のために物品を生産し流通させるという活動は常に「利他的」で、お客様のために行うものです。(そのための報酬を支払うための取り決めは「経済活動」とは別個の話です。)お米や野菜を作るのは、それが一般的な化学肥料を使ったものであれ、有機農法によるものであれ、あるいはコンピューターを作るにしても医療用マスクを作るにしても、他人に提供するために行うことです。オーストラリアでは、ウイルスによる規制のために飲食店や娯楽施設が営業禁止になり、観光地では客が全く途絶えていますが、スーパーなどでは需要が増えており、店員を増加する必要が出ています。これを経済領域全体から見ると、仕事を失った人たちがスーパーなどで働けるようにすればよいわけです。スウェーデンでは仕事を失った航空機の操縦士が、医療施設で医師の監督のもとに働けるよう、緊急の訓練を施しているという話を何週間か前に読みました。経済領域の一員としてわたしたちはみな、社会がどんな仕事を必要としているかに気づかされます。「友愛・互恵」とは、他人のために働き、他者の仕事から利を受け取るということです。
【自己実現することで社会に貢献】
モノでなく人間の精神的な要求を充たす文化領域では、わたしたちは「自由」であることが望まれます。現代人の意識段階に見合った考え方からすると、成人は誰でも自分に関する事柄は自分で決定することができるべきですし、文化領域の組織は、学問の追究でも芸術や娯楽に関することでも、個々人の自己実現を可能にするために役立つことが望まれます。精神的・文化的活動の一部は、教育や医療、報道機関など市民全般のため、公的利益のために行われますが、私的な関心の追及のために行われるものもあります。しかし、例えばレクリエーションとして行われる「洞窟潜水」によって得た特殊な技能も社会に貢献できることがあるというのは、2018年のタイの洞窟遭難での救出活動に見ることができます。いつどこで何が役に立つかわからないのです。社会全体あるいは人類という大きな視点に立つと、わたしたちが文化領域で自由を享受できるのは、それによって各人が人間社会の福利と進歩に貢献できるようになるためだと言えます。精神文化における個人の自由は、裏返せば多様性、すなわち異なったものを尊重することです。経済活動が今現実にある社会の需要に応えるのに対し、文化においては人それぞれが別々の仕方で現在または将来社会に貢献することができるようにすることです。したがって「自由」といっても必ずしも‶個人の勝手〟ということではありません。
今回の新型ウイルス蔓延や戦争などによって必要不可欠な活動・業種の休止や営業停止が行なわれると、真っ先に影響を受け入れるのは文化的な活動です。スポーツとか芸術・娯楽などは、生きるためだけなら必要がなく、‶快適に〟生きるための贅沢な‶おまけ〟のようなものです。しかし、人類社会は経済活動において互恵・利他の分業をすることで富を蓄積してきたがゆえに文化を創造し続けることができるのです。シャットダウン/ロックダウンが長引く場合には、人々の心を癒したり励ましたりするためにさまざまな形で文化的な活動が提供・共有されることが必要になります。今までなかったような形でこれを行うためにデジタル技術を使いながらいろいろな人がさまざまな工夫をしているのは皆さんもご承知のとおりです。
さて、アメリカでは新型コロナウイルスの危機的状況の中で、ライフルなどの銃の購入が増加しているという報道を耳にしました。武器を所持する権利があるということですが、経済活動としての狩猟(獲物を他者に売る)でライフルが必要な人や趣味として銃を使う(スポーツや自分で楽しむための狩猟)という人がいるのはわかります。しかし、武器を使って自らを(他の人間の暴力から)守らなければならないというのは法律を犯して人を襲う人間が大勢いるということですから、これは一種の無法状態であるということでしょう。これはすなわち国家が機能していないということになりますが…。
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