マーテイン・ラージ著、林寧志訳 © 2019 Yasushi Hayashi
『三分節共栄社会―自由・平等・互恵・持続可能性を実現する―』11の1
学校序列化や試験中心の学習目標など、監視と説明責任を追求するメカニズムによって国定学習理論が押し付けられている。これはスターリニズム臭く、嫌気がさすだけではなく重大事である。…教師の間に悲観と無力感が漂っているが、情熱がありながら自分で考えたり行動したりすることが許されないときに誰もが感じる様子を映し出しているようだ。
ロビン・アレグザンダー教授「ケンブリッジ初等教育調査」
(リチャード・ガーナーによるインデペンデント紙二〇〇九年十月十六日記事からの引用)
教育に自由を吹き込むと創造される共同の富が増大します。一人ひとりの人間がそれぞれの創造性・肉体・精神・道徳観・感性・知性の潜在能力を発揮してクリエイティブに生き、生産的に貢献することで共同の富が築き上げられるのです。親は誰でも子どもが自己の可能性を実現し、愛や幸せ、仕事や生きがいに恵まれた生活をおくることを願っています。雇用主は、責任感・やる気・学習意欲・協調性・自主性などがあり、コミュニケーションやICT、数学などに長け、目が輝いている若者を求めています。コミュニティ全体としても、政治に、社会に、文化に参加できる市民が必要です。私たちの環境・地球も保護されなければなりません。つまり、学校・コミュニティ・家庭は自由な文化スペースの中で子どもや若者たちの資質を培い、一人ひとりが自己を発見し、才能を発揮できるように支えていくのです。私たちの未来は子どもたちにあるのです。
けれども、イギリスの教育を見ると、万事が順調に運んでいるわけではなく、矛盾やパラドクスが立ちはだかっています。
第一に、英国政府は中央集権化された教育の検査・監査体制を制度化していて、政府が認めた優良校には補助金を出し、いわゆる〝落第校〟は名前を公表して辱めます。政府は金融街シティや商業部門を信頼して規制緩和を行います。なぜ銀行家たちは信頼できるのに、教師たちは信頼できないのでしょうか。
第二に、政府は学校序列化と教育の〝市場化〟を通して保護者の〝選ぶ権利〟を学校教育に導入していますが、ここには矛盾があります。政府の宣伝どおりに流行の学校を選んで子どもを送ろうとしてもいつも満杯です。公式にであれ非公式にであれ選抜制度があり、ところによってはくじ引きで入学生を決めるところもあります。これは制度上の矛盾です。
第三に、イギリスの学校を〝国際レベル〟に引き上げるために多額の資金が教育につぎ込まれているにもかかわらず、国際比較の結果は悪化の傾向があります。多大の努力、多額の資金をつぎ込んでも、平均するとイギリスの学校のレベルは平凡な域を出ないのです。なぜ教育改善が進まないのでしょうか。
第四に、PISA(OECD生徒の学習到達度調査)の結果などで見るとイギリスの児童生徒は他国の子どもたちに劣りますが、イギリス国内での公式試験の統計結果は向上しているというパラドクスがあります。GCSE[イギリスの中等教育卒業試験]の評価基準が甘くなっているのでしょうか。〝テストのために教える〟授業が広まっていることが英国児童家庭学校特別委員会によって最近露呈されましたが、試験結果のよさはテストに合格するように子どもたちがプログラムされていることを反映するだけで、実際の学習体験の向上に結びついていないのではないでしょうか。新たな教育政策によって〝教育レベルが向上〟すれば政治家は自分の手柄にすることができるので、教育が政治化されているのでしょうか。ダラム大学のピーター・ティムズなどの学者たちによる調査結果ではイギリスの識字教育のレベルは過去五十年間ほとんど向上していません。
Jack Grimston, ‘The Three Rs’, Sunday Times, 9 September 2009 参照。
第五に、児童福祉政策の「どの子も大切Every Child Matters」によって英国政府は「健康でいよう、安全を守ろう、楽しんで達成しよう、前向きな貢献をしよう、経済的の安泰を得よう」を看板に一人ひとりの子どもたちの幸せに配慮する方針を打ち出していますが、実際は測定可能な学校の実績を上げることに力が注がれています。実績を上げると学校は報酬を得るようになっているのです。
最後に、エド・ボールズ教育相(執筆当時)は、教師が責任をとって職業上の判断力や指導力を発揮することを望むと言いますが、実は教師を信頼していません。例を二つ挙げますと、一つは二〇〇八年九月にイングランドで[義務教育開始年齢である五歳以前の幼児の発達段階・福祉内容・学習の到達度などを定めた]「就学前基礎段階EYFS: Early Years Foundation Stage」が法制化されたことで、もう一つは教員免許状の五年ごとの更新です。エド・ボールズは医師がどのように手術を行うべきかはまだ法制化していませんが、教師に対しては法律で圧力を加えているのです。これとは対照的にウェールズでは、議会がEYFSの指針は教育者が任意・自主的に参考にするものと規定しました。
訳注:イギリスは一種の連邦制なのでイングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドで程度の差はあっても教育などの政策が異なることがある。
イングランドの教育相はさらに全国標準アチーブメントテストの実施を拒む教員は法律に違反しているともいいます。
Polly Curtis, ‘Great Teachers Don’t Write Any Child Off’, Guardian, 21 October 2008 参照。
教育の目的について議論することはすなわち私たち自身の価値観・人間像・社会展望・教育思想について考えることです。具体的に例を挙げると、教育と職業訓練の違いは何でしょうか。ICTはイングランドの小学校教育の主要テーマの一つですが、なぜ芸術はそうではないのでしょうか。ゴードン・ブラウン首相(執筆当時)のパラダイムでは教育の主要目的は経済なのです。〝グローバルスキル競争〟を勝ち抜くため、世界的に競争力のある国民経済を実現する必要があるからだと言いますが、実際そうなのでしょうか。
Gordon Brown, ‘We’ll Use Our Schools to Break Down Class Barriers’, Observer, 10 February 2008 参照。
政府が望む目的、「イギリスが国際的な経済力をつけるために子どもたちを生産的な勤労生活にむけて訓練する」と、教師や保護者が願う目的、「創造性・感性・肉体・精神・知性の潜在能力を開花する」は、根本的に相入れないものです。
これは教育内容にもかかわる重要問題です。この章「教育に自由を吹き込む」の焦点は、教育界と政府という二つの異なるシステムの関係、その間の境界線を分析することにあります。先に挙げた様々な教育問題の根底には領域間の境界線の問題があるのです。一人ひとりの子どもが教育を受ける権利を平等に保障するのは確かに政府の仕事ですが、子どもたちも教師たちも自由に学習・教授できなければなりません。教師の自由とは自分勝手な自由でなく、子どもの発達、学習、個人としての成長、社会意識の成長のために最善の状況を作る専門性に根ざすものです。政府の原則は法律上の平等にあるが、教育の原則は文化における自由なのです。
政府と教育界のパートナーシップはどの程度それぞれの長所が発揮できるように機能しているのでしょうか。対等な関係に基づくパートナーシップでしょうか。「平等」や「自由」に偏りがあるのではないでしょうか。イギリスでは一九七九年まで教師の裁量が認められすぎていたが現在はその逆だと言われます。最善のバランスを達成するにはどうすればよいのでしょうか。
イングランドに比べてウェールズとスコットランドのほうが政府と学校のパートナーシップに真の尊重関係が存在するようです。これには地域文化の違いもあるでしょう。スコットランドやウェールズでは伝統的にリベラル[進歩的・寛容的な自由]な視点で教育をとらえますが、学校制度上も政府からの独立・自治を尊重します。北欧の国々は教育の国際比較において通常トップに来ますが、そこでも教育界と政府はパートナーシップ関係を尊重します。これらの国ではリベラルな子ども中心の教育文化・コミュニティ文化が存在し、産業化されて〝学校化〟した権威主義的なところのあるイングランドの教育文化とは対照的です。これらの国々では古代ギリシア人が学習へ敬意を抱いていたように教育者に対しても尊敬の念を持っていますが、イングランドでは古代ローマ人の教師観と同様に教師はカリキュラムを送り届ける〝奴隷〟であり、プロクルステスのように、能力主義社会でやっていけるように子どもを引き伸ばしたり、手に職をつけるのに邪魔にならないように詩歌などを切り落としたりするのです。[訳注:古代ギリシア・ローマではペダゴーグと呼ばれる奴隷が家庭教師として上流階級の子弟を教育した。また、ギリシア神話のプロクルステスは旅人をベッドに寝かせ、そのベットより身長が短ければ引き伸ばし、長すぎればその旅人の足を切ったといわれている。]
この章ではイングランド政府による教育統制を変革し、政府・市民の両者が恩恵を得る真のパートナーシップに変えることを論じます。目的とすることは教育に自由を吹き込むことで教育者、児童生徒、そして保護者たちの学習能力を解放することです。それが実現すれば恩恵は多大で多様です。例えば、
· 学習が進む。
· やる気のレベルが上がる。教師の裁量が意欲的に行われる。
· 教育を自分のものとして捉える。
· 結果が充実する
· 全国標準アチーブメントテストのようなしばしば逆効果をもたらす監査制度を廃止することによって経費を削減する。〝テストのために教える〟代わりに、教師と児童生徒が本当の学習のために時間を費やせる。
· 教育資財が各学校の実情に合わせて生徒の学習に最も適した方法で使われるようになる。
· 児童生徒のニーズや地元地域の状況に合った多様な教育アプローチが可能になる。
· クリエイティブで専門性を持った人材を教職に引きつける。
· 文化や社会の刷新のための創造的なコミュニティ・センターとして学校を位置づける。つまり、閉鎖された学校でなく開放された学校となり、知識の伝動ベルトでなく学びのための組織となる。
· 人間性を尺度にした一貫性のある教育を行い、また児童生徒の権利を尊重することにより、社会発展・自己発展の方法を変革する。
· 教育制度への信頼を高め、教育に自由を吹き込むことによりいろいろな面で学習を改革することができる。
これはおとぎ話の願い事のようなものだと思うなら、インスピレーションを感じさせる様々な実践を見てみると良いでしょう。アメリカの小規模教育運動やイングランドでヒューマン・スケール・エジュケーションHSE[人間性を尺度にした教育]に取り組んでいる公立学校がたくさんあります。レスタシャー州のカウンテスソープ、ミルトンキーンズのスタントンベリー・キャンパス、ブリストルのブリスリントン・エンタープライズ・コレッジ、サリー州のスタンリーパーク・ハイスクールなどは「人間性を尺度にした学校」プロジェクトの模範となるものです。そこで、本章ではまず教育に自由を吹き込むことを論じて、その恩恵を描写し、具体的にどうすれば良いかを検討して、そのための第一歩を示します。本章でカバーする内容はつぎのとおりです。
· 子どもの全国的画一化と商品化
· イングランドの自由な教育制度がいかに政府に乗っ取られたか
· 人間性を尺度にした学校の出現:過剰規制からパートナーシップへ
· 教育の自由化:監査思考からからパートナーシップへ